神にゆだねて生きる

マタイ 4:1-11

空腹の中でイエスは悪魔の誘惑を受けた。「神の子なら。これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。」(4.3)
石は石でありパンではない。しかし空腹は人間の弱さを露呈し満腹は人間を鈍感にする。お腹の空き具合で人間は主張を変えたり立場を乗り換える。ともすれば石をパンに変える道理の外れた道に陥ってしまうものである。
イエスは言った。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(4.4)
空腹は出エジプトの民のように目的を見失わせる。(出エ16章)しかし神の救済史に参加する教会は例え空腹であってもそれを見失ってはならない。時として教会も石をパンする誘惑を受ける。楽な道、得な道、合理的な道、逃げ道をチラつかせ、悪魔は石をパンにしてしまえと誘惑する。これに抗う道は不安と共に神にゆだねる他ない。全て先を見通せるならこれに勝るものはないのだが、もしそんな道を歩んでいるとしたら知ってか知らずか何処かで石をパンにしているに違いない。悪魔に放った主イエスの回答は、人生において神にゆだねる領域を確保する事の大切さである。
第42回教団総会において常議員の選挙方法に関する議案を神奈川教区が提案した。投票者は常議員定数の半数を投票する。否決され全数連記となりおよそ総会議員54%の多数派が常議員27議席中26議席を獲得した。もはや神にゆだねる必要はない。これで今総会期も多数派にとって完全に先の見通せる体制が整った。間近に迫る教団の財政破綻を避けるために教団の機構改正(縮小)が急務である。まさに空腹の状況にあって道理の外れた事を強行してしまった。これが石をパンするということである。
神にゆだねて生きるとは、まさにこの誘惑に打ち勝つことである。確かにこれに打ち勝ち神の子メシアは神にゆだねて生きるものであることを示した。私たちは人間である。主イエスのように常に誘惑に勝てる訳ではないかもしれない。しかしキリスト者の証として誘惑に負けないよう頑張って行きたいと思うのである。

孫 裕久

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