偽善の戒め

マタイ 6:1-6 , 16-18

律法は弱者のために定められた。しかし人間は自己正当化と他人を裁くために律法を用いた。即ち律法は弱者救済(隣人救済)ではなく、人間個人が救いの高みへ登るための道具に成り下がった。これを本来の在るべき姿に完成させるのが主イエスの律法に対する姿勢であった。
十戒を授かった民は、どの民よりも貧弱であった。ただその民に対する主の愛ゆえにその民は救い出された。(申命記7:6-8)
ここに律法が弱者のために定められた根拠があり、それを完成させたのは愛であることが明記されている。
主イエスは「敵を愛する」ことで律法の完成を説いた。しかし主イエスは注意する。それを見せびらかすなと。そもそも報いを得るために愛するのではない。それは偽善である。しかし、もし報いを得るなら神からいただいた方が良い。人に見せる事を目的とした愛は、既に人から報いを得てしまっている。神からいただきたいなら、人に見せようとしないことである。神はいつも隠れた所をご覧になられているから。
信仰者は神の前に単独者として立つことが要求される。それは愛の業について、神と私しか知らない秘密を持っていると言い換えることが出来る。信仰者にはそれぞれそういう秘密の部分が無くてはならないのだと思う。
「これは神様と私だけの秘密にしておこう」そういう影の愛を一つ一つ積み重ねていく一年となりますように。

孫 裕久

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