冤罪

冤罪を巡る、あるドラマのワンシーンで次のような台詞がありました。

「検察は、最後に裁くのは裁判官だと言う。裁判官は、検察があげてきた証拠だと言って、判決を下す。そして、我々弁護士も、時に依頼人の利益を優先して打算的になることがある。裁かれる人の人生には誰も責任を負おうとしない。裁判とは、一体誰のためにあるんでしょうね。」

捜査機関の証拠捏造によるものとして袴田事件は再審無罪判決となりました。
冤罪とは冒頭の台詞に象徴されるように、法曹三者(裁判官、検察官、弁護士)が自らの正当性や利益の追求によって生まれます。私たち人間は、他人は裁き自分は正当化します。程度の差はあれ、その体質は誰もが内包しているのです。それは他人を裁く快感と自分を守る防衛本能から来ており、その先にあるのは争いと滅びです
人間が人間になるためには、意識してこの快感と本能に抗わなければなりません。その具体的な方策を聖書に訊くならば、他人を赦し自分の過ちを認めることです。そしてその先に希望があると説いています。平たく言えば十字架と復活はそれを象徴しているのです。
今まさに時代は混沌であり闇が深淵の面を覆っています。ここに光を放つ教会の役目は極めて大であります。人間が人間になるために「赦し・認める」ことのできる居場所として。

孫  裕久

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