河口湖から臨む富士山は真南にそびえ立ち、東側の左半分が朝日に照り輝いていた。2024年大晦日の朝、ホテルの食堂から臨んだその光景は私に何かを語りかけてきた。
その日、随分久しぶりの家族旅行を河口湖で過ごしていた。富士山を間近に臨みながらの朝食は胃袋だけでなく心も満たしてくれた。前日の沈む夕日の逆光でシルエットになった富士山とは対象的に、朝日に照らされた富士山は静けさから目覚めていこうとする何か交響曲の静かな導入のように感じた。そして何よりまだ日が昇るとうしている時間の薄暗さが朝日にコントラストを与え富士の頂をより一層明るく演出していた。しかしその時私は、その明るく照らされた頂よりも、むしろその岩かげに出来た影に目を引かれた。そして瞬間的に言葉が迫ってきた。あの影は光が造った影なのだと。光がなければ出来ない影なのだと。否、光が光であるためには、あの影が不可欠なのだと。影を造らない光など存在しないのだと。
光には種々ある。圧倒的な暗闇に包まれた中に灯された小さな光は周囲を照らすまでの力はない。しかしその光は確かな方向と位置を伝え、救いを求める者の希望として灯っている。一方、圧倒的な光はその光で影を造る。影のない世界は光を認識できない。光は影を造りその影によって存在を得ている。正統主義とは異端を必要とする。異端を影にして正統主義が地位を得ているように。異端がなければ正統主義も存在し得ないのだ。そんな言葉たちが朝日に眩しく照らされた頂とその岩かげに出来た影となって私に語りかけてきたのである。光は影を造る。影は光によって造られた。そして主イエスは光よりもその影を愛されたのだと。
孫 裕久