孫裕久
最近、留学生たちへの講義に、若干の行き詰まりを覚えている。得意の話でも、なんとなく食いつきのが悪い時がある。例えば先週、野球のたとえ話をした。戸塚のスポーツ専門学校ではいつも大受けするのであるが、伝わっている手応えを全く感じない。もしかしてと思い尋ねてみるとやはりそうであった。彼らは野球を知らない。彼らの国では、野球はかなりマイナーな競技らしい。おそらく、日本人にクリケットの話をしているようなものなのだろう。クリケットは日本ではマイナーな競技だが、世界的には大きな競技である。つまり、私たちが知らないだけで、世界の常識は必ずしも日本の常識ではない。
たとえ話というものは、それを共有していなければ役に立たない。イエスは、種まきや畑、ぶどう園など、農業のたとえを多く用いられた。しかし実は、畑仕事の経験が少しでもなければ、その深いところの意味を十分には味わえない。私自身、神学校の農業実習を経験して初めて理解できたイエスのたとえ話が多々ある。
連れ合いが日本に留学して間もない頃、彼女は周囲の談笑についていけなかった。笑いは、言葉そのものだけで生まれるのではない。その言葉の背後にある経験や習慣、場の空気と結びついて、初めて笑いになる。だから、その背景を共有していない人には、同じ言葉を聞いても何が面白いのか理解できない。それと同じである。
留学生たちに届くたとえ話とは何だろうか。彼らの現場は、在留資格であり、在日外国人としての日常であり、卒業後の就職であり、家族や故郷との距離である。私も在日外国人ではあるが、彼らと同じではない。分かったつもりで語ることはできない。
真理は、状況を離れた抽象的な言葉としてではなく、いつも具体的な現場の中で受け取られていくものだ。川崎戸手教会は、現場を大切にしてきた。現場から言葉が生まれてきた。ならば、留学生たちと共に頷き、笑い、考える講義をつくるために、私はまず、彼らの現場を学ばなければならない。教える前に知らなければならない。神学校で土に触れたときのように。