死者の沈黙の前で

孫裕久
「死者に鞭打つ」という言葉がある。すでに亡くなり、語ることも、弁明することもできない人を、なお責め立てることをいう。
もちろん、事故によって命が失われた以上、事実の検証は必要である。なぜ事故が起こったのか、安全管理に問題はなかったのか、誠実に明らかにされなければならない。それは、亡くなった方々への責任であり、残された者たちへの責任でもある。しかし、検証と断罪は同じではない。
今月22日、国土交通省は、金井創船長について海上運送法違反に該当すると判断し刑事告発した。しかし検察庁によれば、被疑者が死亡した場合、起訴するための法律上の条件を欠き(被疑者が反論できないため)、不起訴となる。つまり、亡くなった人を刑事裁判にかけ、処罰することはできない。それにもかかわらず、死後にその名を挙げて刑事告発することに、政治的意図を疑わざるを得ない。
そこには、辺野古という場所、基地建設への抗議活動、平和学習、反基地運動、国の立場が絡んでいる。その中での刑事告発は、起訴に至らなくとも「辺野古の抗議活動は危険だった」「平和学習は不適切だった」「責任は抗議側にある」という歪んだ印象だけを世間に残しかねない。
金井創船長は教団の教師であり、神奈川では明治学院教会で牧されヨルダン寮の礼拝にも来てくださったことがあった。
辺野古という場所で起こった出来事は、どうしても政治的な意味を帯びる。だからこそ、なおさら慎重でなければならない。事故の検証が、いつの間にか、平和を学ぼうとする営みや、基地問題に向き合う人々への否定的な印象づけに用いられるなら、それは真実を明らかにすることではなく、死者の沈黙を悪用することになってしまう。
死者はもう、自分のために語ることができない。だからこそ、残された者は、事実を曲げず、しかし人を踏みにじらずに語らなければならない。死者に鞭打つのではなく、死者の沈黙の前で、私たち自身の言葉のあり方が問われている。

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