方法

人は「正しさ」を求める。国家も宗教も「われわれが正しい」と言い、個人もまた「私が正しい」と言う。もちろん、正しさそのものが悪いわけではない。
預言者アモスは「正義を洪水のように、恵みの業を絶えず流れる川のようにせよ」と言った。しかし彼が問題にしているのは、「正義とは何か」という抽象論ではなく、貧しい者が踏みにじられている現実であった。イエスも同様である。律法学者らは姦通の女を突き出しイエスにその裁きを求めた。イエスがそこで見たのは、彼らの善悪論そのものではなく、それが一人の女性を石打ちにするために使われているという事実にあった。
戦争もまた、多くの場合、「正義」の名によって始まる。自らを悪だと思いながら戦争をする国はない。それぞれが正当な理由を掲げ、自らの義を語る。
生きものは、他の命との関わりの中で生きてきた。あるものは食べ、あるものは食べられ、あるものは競い合い、あるものは支え合ってきた。
しかし人間は、ただ命を奪うだけではない。自分たちの暴力に「正しさ」という名を与える。そこに、真に人間の罪の深さがある。
もしキリスト教とは何ですか?と問われるなら、私は贖罪論などの教義を答えようとは思わない。ただ「方法にこだわる宗教です」と切り出すでしょう。キリスト教は何が正しいかということよりも、それを「どのように実現するか」にこだわる。
十字架は、他者を傷つけて、厳しくいえばその命を奪って目的を達成することを根底から否定する。ときに愚かと言われようとも、キリスト教はその「方法」の中に真理を探し求める宗教なのです。
故に我々は、正しさを語る前に、その正しさが誰を生かし、誰を傷つけているのかを常に問い、そこから遊離することのないよう努めて参りましょう。

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