孫裕久
実は、先日の町内会でご婦人が発言したその瞬間、数十年ぶりにその懐かしい単語が脳裏を過ったのです。
思い起こせば1991年、私が神学校に入学したその年、国内の神学教育では最先端ともいえるフェミニスト神学が山口里子先生を講師に迎えて開講されました。神学の「し」の字も分からない当時の私ではありましたが、注目を集めたそのクラスを履修しました。そこで出会った言葉が、「オルタナティブ」です。
講義の中で、山口先生は「オルタナティブ」という言葉を繰り返し用いておられました。そして彼女はそれをあえて日本語にすることを避けていたように思います。しかし当時の学生の間では、「もうひとつの選択」という意味で理解していたように記憶しています。
例えばガラテヤ書の「男も女もない」というとき、女性が「男性のようになる」こと、または男性が「へりくだる」ことで平等になるのではない。男性であること自体が有利にならない共同体をつくること、それがオルタナティブです。
簡単なモデルを示すならば、AさんとBさんが一つしかないボールを使いたがっています。公平性を考えたとき、昨日Aさんが使っていたので、今日はBさんが使う。または30分ずつ平等に使う。しかしその場合はどちらが先に使うかという問題が残ります。オルタナティブは公平性という舞台から飛び出して、AさんとBさんでキャッチボールをする「一緒に遊ぶ」という別次元に誘います。
町内会で、ごみ集積所に置かれた空き缶を、朝早くから持ち去る人たちの音がうるさいという苦情が出されました。それに対して、いくつかの意見が寄せられました。市の条例では違反行為である。持ち去り禁止の張り紙をする。彼らも生活の糧にしているので止めることはできない、など。議論が膠着する中で、一人のご婦人が発言しました。「静かに持っていってくださいとお願いしたら、次から静かになりましたよ」これに皆、唖然としました。だれも空き缶を持ち去る彼らを対話の相手として見ていなかったのです。ただ早朝から騒音を立てる人たちとして対象化していたにすぎませんでした。
オルタナティブとは、単なる第三の選択ではありません。自分たちがどのような議論の枠の中にいるのかを気づかせ、その枠の外に答えを見いだし、新しい関係をつくっていくことです。
「取り締まるか、黙認するか」という議論の外に、「話してみる」という道があったのです。