「ソクラテスの弁明」(1) 雄弁と正しさ

「ソクラテスの弁明」(1)
― 雄弁と正しさ ―

大体こういうものは読み終えてから書くものですが、私には少々難解な翻訳で、実はまだ読み終えていないのです。それどころか、教師の端くれでありながら、哲学の入門書ともいわれる本書を今日まで読まずにいた、その恥をさらすことも承知のうえで、あえて一言書いてみようと思ったのです。しかし、「無知の知」を齧っただけでソクラテスを知った気分になっているのは、私だけではないでしょう。
それにしても、なぜ今さら『ソクラテスの弁明』なのか。その理由を話し出すと、それだけで終わりそうなので、そこは割愛します。
さて、今のところその罪状は明らかではありませんが、本書の導入は、告発者が告発の弁を述べ終えた、というところから、その告発の「雄弁」を皮肉りながら被告人ソクラテスの弁論(弁明)が始まります。
「諸君が私の口から聞くべきところは、ゼウスの神にかけて、彼らのそれの如く麗句と美辞とを以て飾られた巧妙な演説ではない。それは無技巧に思いつくままに漏らされる言葉である。けだし私は私が語るところの正しさを信じている、従って諸君のうち一人といえどもそれ以外のことを期待してはいけない。」
ここでソクラテスは陪審員に「話し方が上手いか下手かではなく、私の言っていることが正しいかどうかだけを考えてほしい」と言っています。
近年、プレゼンテーションが注目されています。しかし、伝え方が上手であることと、語られていることの正しさは、本来別の問題です。それでも私たちは、語り方の巧みさに、内容の正しさまで重ねて見てしまうことがあります。
説教でも、博識を感じさせる言葉や、修辞的に美しい文章が並べられていても、振り返れば全く中身のないものもあれば、拙い言葉で、話し方がたどたどしくとも、真に迫る説教もあります。
ソクラテスは、話し方に騙されず、正しさの判断を求めています。しかし、何をもって正しいとするのか、それを見分ける基準を、今のところ示してはいません。それがこの後の展開で明らかになるのか、それとも読者自身に委ねられているのか、今のところ私には分かりません。
おそらく、この「一週一言」の続きはあります。しかし毎週ではありません。そしてこれは本書の要約ではありません。「一週一言」の題材に行き詰まったとき、ソクラテスにあやかりながら、読んでいて引っかかったところを勝手に拾っていこうと思います。
そして冒頭の、なぜ今さら『ソクラテスの弁明』なのか。それについては、この続きのどこかで触れることができればと思っています。(つづく)

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