孫裕久
「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の誠を捧げます。」
この文言自体は、確かに間違いだとは言いません。しかし、誰がその「苦難」をもたらしたのでしょうか。
政治家が靖国神社を参拝するたびに、その公人か私人が問われます。同じ行為であっても、誰が、どの立場で行うかによって、その意味が違ってくるからです。
去る8月15日の全国戦没者追悼式は、政府主催の追悼式です。そして、この式辞を述べたのは内閣総理大臣です。つまり冒頭の文言は高市早苗さんという私人が戦没者への思いを語ったのではなく、日本政府を代表する者として語った言葉です。
そう考えると、「敬意と感謝の誠を捧げます」という言葉はすんなり心に届きません。国家が戦没者を追悼するのであれば、国家自身がその死にどう関わったのかを語らずに、「感謝」だけを語ることができるのでしょうか。
もちろん、1945年の政府と現在の政府は同じ政権ではありません。しかし現在の首相は、私人としてではなく、その国家の歴史を引き受ける政府の代表として式辞を述べています。であるならば、「ありがとうございます」と言う前に、自分たちはこの死に対して、どの位置に立っているのかを明白に示し、まずは「ごめんなさい」を言うのが筋だと思うのです。
同じことは、日本基督教団信仰告白にもいえます。信仰告白は、神への告白であると同時に、この世に告白するものです。であるならは、日本基督教団とはこの世との関係において何者であるか。その歴史に触れながら明らかにせねばなりません。その部分が完全に抜け落ちたところで、「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。」というのはちょっと都合が良すぎるのではありませんか、という話なのです。「我ら」とは誰なのか。その「我ら」は歴史のどこに立っているのか。何をしてきた「我ら」なのか。
「罪の赦し」を語る前に「我ら」は、神と世とアジアの国々に「ごめんなさい」と赦しを乞うべきではないのか。高市首相に向けられる問いは、等しく我らへの問いなのです。
「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書1:14)
ここに、神は何者として何処に立たれたのかが明示されています。み言葉を宣べ伝える者は、自らが何者としてどこに立っているかを常に忘れず、そこから、そこにある言葉を語って参りましょう。