孫裕久
ソクラテスは、自分を告発する直接の告発者(アニュトス等3名)以上に、恐れている別の告発者たちがいると言います。それは、昔から流布してきた自分についての悪い噂と、それを広めてきた人々でした。
「私は彼らを、アニュトス一味よりももっと恐れているのです。」
目の前の告発者なら、誰が何を言っているのか分かります。故に反論もできます。しかし、長い年月をかけて広まった噂は、誰が言い始めたのかさえ分かりません。すでにソクラテスの悪評は人々の頭の中に染みつき、それを聞いて育った人さえいたようです。
これは紀元前399年の話です。しかし、どこの誰とも分からない人々の言葉が一人の人間を追い詰めるという点では、現代のSNSとあまり変わらないようにも思えます。しかも厄介なのは、噂や悪口が人を傷つけることだけではありません。誰かについて「あの人はひどい」と語り合い、「そうだね」「良いね👍」と同意するとき、そこに奇妙な仲間意識が生まれます。そして「私たちは、あの人とは違う」という安心感です。
仮に、その批判の内容が事実であったとしても、他人の過ちを材料にして、自分の正しさを確かめようとすることは別の問題です。誰かの悪を、自分の義の材料にしてしまう。そこに人間の弱さと醜さがあります。
「すでに社会的制裁を受けている」という言葉を耳にします。それはときに、その人がもう顔を上げて街を歩けないほど、無数の見知らぬ人の視線にさらされているということでもあります。
誰かを外に置くことで、「私たちは、あの人とは違う」と安心する。そして、そこに歪んだ仲間意識が生まれる。人間は二千年以上前から、そんなものを必要としてきたのかもしれません。
しかし、その輪に加わらなかったのが、ナザレのイエスであったと言えるのではないでしょうか。
(告白。古典訳の難しさから早々にギブアップして、簡単な現代語訳版に逃げました。)