聖霊による一致

一致とは、二つ以上のものが、食い違うことなく同じになることです。一致といえば「信仰告白と教憲教規による一致」が謳われています。教会は信仰告白を、教団は教憲教規を持っています。故にこの理念を間違っているとは言えません。しかしこの世で完全に一致する事などあり得ません。まして書かれた文言で一致する手法は結果的に異なるものを排除します。事実、この前提には対立があり、考えを等しくする多数派がそれを異にする少数派を排除又は隷属させるものとして機能しています。

またそこに対立が存在しても双方が利害を共有することで、一時的に対立点を棚上げして一致することもあります。しかし文言にせよ利害にせよ、それらは一致を目的としていません。排除や利害が目的なのです。

これに対して聖霊による一致とは、一致そのものを目的としています。使徒言行録2.1は一同がひとつになって集まっていた所に聖霊が降ったと証言しています。一致そのものを目的として集まる共同体に聖霊は降ります。この聖霊とは何なのか?それは対立を打ち砕く力ではないでしょうか。

人間は対立しています。人間はその対立を排除や利害によって解消されたかのような錯覚を覚えます。しかしそれは一時的な幻想です。究極的に人間は一致する事など出来ない存在です。それをわきまえる時、人間に出来ることまた期待されていることは一致を目的としてそれを目指していく他ないのです。

決してこれはキリスト教会に限ることではありませんが、打ち砕かれた時、人間たちはその対立が如何にくだらないものであるかを知るに至るのでしょう。近年度重なる震災の被災者や沖縄の叫び、即ち犠牲となって十字架に架けられた者たちの叫びによってその対立は打ち砕かれるのです。

沖縄教区、北村牧師の戒規免職、これらを切り捨てて謳われる「信仰告白と教憲教規による一致」に聖霊が降る訳がありません。聖書の証言によれば教会は聖霊による一致から始まっており、これを否定するキリスト者は誰一人いないと断言できます。

聖霊とは一致への道を阻む対立を打ち砕く力です。「聖霊を降し給え」とは一致そのものを目的とする者たちへ許された祈りです。そしてその祈りは、十字架のイエスに出遭わせ、我らの内にある対立(敵意)を打ち砕き給えと祈っている事を覚えて捧げて参りましょう。

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