荒野で叫ぶ声(マルコ福音書1.1-8)


マルコ福音書は冒頭で神の子イエス・キリストの福音の初めについて語る。
先ず、イエス・キリストによる福音は、かねてより神が計画してことであったこと。次に、福音は荒野からはじまったこと。そして神の子は圧倒的な力と権威をもって登場することである。
バプテスマのヨハネは神の計画通り荒野で罪を赦しを得させるための悔い改めのバプテスマを授けていた。
キリスト者にとってそれが神のご計画によるものか否かは決定的に大切である。私たちは長らく河川敷で礼拝を守ってきました。しかしそれは違法行為です。ヨルダン寮は官有地に建てられた違法建築物です。では如何にして私たちはそこで礼拝を守ることが出来ていたのか?その根拠は神のご計画であると信じたからです。
私たちが社会の価値観ルールにそぐわない判断や行動をとを取る時、その根拠であったり支えとなるのが、これは神のご計画にそうものであるという信仰であります。
福音は荒野からはじまります。荒野とは未開拓地です。それを手掛けた人がいない所で声を上げるのは不安を伴います。だからこそ、本当にそれが神のご計画なのか?神のみ心なのか?その信仰がなければ到底そこに道を備えることなど出来ないのです
しかし私たち人間に出来ることは一部分でありそれを完成させて下さるのは後から来られる神の子です。ヨハネ自身も自分は「その方の履物のひもを解く値打ちもない靴の紐をとくねうちすらない」と告白しています。最後は聖霊で洗礼を授ける方にお任せして良いのではないでしょうか。しかしそれでも荒野で主の道を備えるものがいなければ福音は始まりません。
神の計画の内にあって恐れず荒野で叫ぶ声となりましょう。神の子イエス・キリストの福音はそこから始まるからです。

孫 裕久

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