なぜ恐れるのか

マタイ10:26-33

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表すものは、わたしも父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、父の前で、その人を知らないと言う。」(10.32)

この一句には、キリスト者が真実を生きる困難さが込められています。
この世には誰かを除外して成立する円環があります。その円環は共同性とか結束、また仲間意識と呼ばれるものです。それは初めから存在していたのではなく、その一匹を除外することで誕生する円環です。この円環の中で生きることを俗に、しがらみの中で生きるとも言います。冒頭のみ言葉は、しがらみを絶ち真実に生きる者はわたしの仲間だとイエスは言っています。しかし、しがらみを経つとは円環の外に出ることを意味しており、結果として円環の中にあった関係を失うのです。
イエスは弟子たちに「恐れるな」と命じます。恐れとは生理的なもので努力だけで克服できるものではありません。しかしそれでも「今、私は何を恐れているのか?」という問いと向き合うべきでしょう。恐れの根源を自覚することなくただ恐れてばかりはいられません。
真実は円環の外にあります。故に真実に生きようとする者には恐れが生じます。その恐れの正体は、失われる人間関係です。その円環を超えて外に出ようとする瞬間、しがらみの人間関係に残るか、真実生きるか、即ち主イエス、更にそれは即ち、円環の犠牲となった迷える一匹の友となるか。その選択に迷いためらう私にかけて下さった言葉が冒頭の主のみ言葉です。

孫 裕久

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