人間とは

牧師などという仕事をしていると、人間というものについて考える時間が多くなります。「人間とは?人間らしく?人間なんだから?」私がそんなことを考える時、その背景にはライオンが鹿を捕らえ食いちぎるシーンが脳裏を過っています。即ち私が人間について考える時、それは弱肉強食の野生動物との違いを探し確認する作業でした。しかし私は野生動物について詳しい訳ではありません。もしかしたら彼らにも心があり、弱者を保護し共存するような習性があるのかも知れない。むしろ兵器で大量殺人する人間の方がよほど野蛮です。道徳に外れた行いをする人を犬畜生などと罵倒しますが、それは犬に大変失礼なことです。だから「野蛮な野生動物」との比較で人間が万物の霊長と考えるのは人間の単なる傲慢であり、それは男が「俺は男だ、男になれ」と口にする時、女をひ弱いものとして見下げているのと何ら変わらないと思うのです。
人間の意味を知らない人間は野蛮且つ冷酷で無慈悲な人間に非人間的というレッテルを貼ることで自分が人間であることを確認してきたのではないか。即ち何が人間であるかは知らないが「野蛮な野生動物」のような非人間的な輩(やから)を裁くことでしか人間は人間になれなかったのではないか。
「人間とは何か?」何故、この問いの前に人間は立つのか?恐らくは、戦争、貧困、差別がなければ人間はこの問いを知らなかったに違いない。「人間とは何か?」これは机上の問いではなく、この世から戦争、貧困、差別を無くすために、そして和解のためにその小さな一歩を歩んでいく人に与えられた問いなのだ。そしてその歩み一歩一歩がその答えなのだと思う。
私は人間になりたい。人間になった神の子の背中を追い求めながら・・・。

孫 裕久

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