人間とは (2)

先週の一週一言を書き終えて、今ひとつ思うところがありました。それは野生動物との比較ではなく、機械との比較です。人間は電気が流れプログラム通り正確に動く機械ではなく、血が通い自分で考えそして失敗もする生き物です。
社会にはルールがあります。ルールとは秩序や約束、規範、法令などで学校や会社での規則、教団であれば教憲教規もその類です。ルールは人々が円滑な社会生活を送るために必要なもので守るべきものです。
しかし生活の中で「そういう決まりですので」という対応に融通のきかない苛立ちを覚え「あなたは血の通った人間ですか?」と問いたくなる場面に遭遇します。
ルールは例外を嫌います。融通をきかせるという一つの例外がルールを無力化しかねないのです。しかし「そういう決まりですので」という対応を聞く度に、人間とは何なのかと考えてしまうのです。
「そういう決まり」なのだから仕方ないのですが、しかし決まり(ルール)を持ち出したその人が、時にルールというプログラムで動かされている機械に見えたり、また時にはルールに責任を負わせて安全地帯に逃げ込んでいる様に見えます。
人間にとってルールは大切で人としてそれは守るべきものです。しかし時として、決められた通りにしか動かな機械ではなく、人間である為には、そのルールから離脱せねばならぬ「捨て時」があるのではないでしょうか。そしてルールを破れば当然裁きを受けるのです。
八月、最後の主日に思うのは、誰もが誰も、そんな正直者が馬鹿を見るような裁きは御免こうむりたい、だから機械のようにルールに従っていれば安全と思う心たちが戦争、貧困、差別を生み続けているのではないかと。
平和を実現するとは、人間が人間になることなのかも知れません。

孫 裕久

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