志す者は志を実現できる地位に就こうとします。しかし志を実現できる地位に就いた者は最早志を貫くことが出来ません。即ち、志を貫こうとすれば志を実現できる地位に就けず、志を実現出来る地位に就くには志を捨てねばならないのです。このような歪んだ現象を生じさせているものの正体こそが日本の政治を腐敗させているのであって、裏金問題などは政治家個人の腐敗に過ぎないのです。
ではその正体とは何か?直接的にそれに答える力はありませんが、言い換えるならば、如何にすれば志を貫き実現することが出来るのかという話です。その方法が結果的にその正体の影を映すのかも知れません。
昨日、娘に書き始めた一週一言の冒頭を見てもらいました。それを見た娘は「イエスはユダ人の王になるつもりだったの?」と私に問いました。これは難しい問題で私は答えに窮し「それはイエスにしか分からない」と答えました。しかし「ただ、イエスは逃げなかったのだと思う。」と付け加えました。イエスは逃げなかったとは、単に逃亡しなかったというのではなく、律法に保護された安全地帯に逃げ込んだり、そこに隠れたりしなかったという意味です。イエスの活動領域は「異邦人の庭」であり、罪人らが放置された外野です。即ち、何故、志を貫こうとすれば志を実現できる地位に就けず、志を実現出来る地位に就くには志を捨てねばならないのかといえば、彼らは常に安全地帯で自分の身を守りながら活動しているからです。志はその安全地帯には存在しないのです。
志す者は超えていかねばならない。そしてそこから逃げてはなりません。しかし彼を待ち受けているのは十字架です。これがキリスト教会の基本的な方法で、愚かと思われますが、その先に希望があることを信じているのです。
孫 裕久