先週の衆院予算委員会で、予算委員長が質問時間を超過した議員に対し、「ルールを守りなさい!」と一喝する場面がありました。議員は社会保険料の負担軽減について質問していましたが、時間を過ぎても予算委員長の再三の制止を振り切り、続けました。この一幕に対する世間の反応は様々です。「ルール無視は許されない」という意見が多い一方で、質問内容に理解を示す声も少なくありません。
こうしたルール違反をめぐる議論に耳を傾けると、結論は常に「良いか悪いか」に行き着いているように思います。時間を守るのは当然とする意見もあれば、内容が重要である以上、単純にルールを適用すべきではないという意見もあります。なぜ人は常に「良いか悪いか」にこだわるのでしょうか。
世間の声は、まるで相撲やプロレスを観戦するように、土俵やリングの外から「良い」「悪い」と評価を下しています。それ自体が民主主義の一部ではありますが、最近は単なる評価に終始している印象を受けます。特にSNSでは、「これは正しい」「これは間違っている」といった二元論的な意見があふれ、「それは良いのか、悪いのか」「その理由は?」——議論がそこで止まり、次の行動につながりません。
イエスは律法違反の常習犯でしたが、彼の関心は「良いか悪いか」ではありませんでした。彼は隣人と関わることに重点を置いていました。ただ観客席から意見を述べることと、実際に課題に向き合うこととは、まったく次元が異なり、見える景色も違います。
「共に生きる」とは何か。この「良いか悪いか」という流れから脱出したところに、そのヒントがあるように思います。
孫 裕久