罪の赦しの恵み

受難節は、広い意味で「イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が贖われた」ことを思い起こす時です。しかし、「罪が贖われた」とは、単なる免罪ではなく、赦された者が向き合うべき課題が伴います。罪の背後には、それによって傷つき苦しむ人や、それと知らずに騙され続ける人が存在します。その事実を無視して「赦された」と喜ぶことは、独りよがりな信仰であり、それ自体が新たな罪と言えるでしょう。
十字架による罪の贖いは、単に安心や平安をもたらすものではなく、私たちを壊れた関係へと向き合わせ、謝罪と和解へと押し出す厳しさを伴っています。
現代において罪を認めることは決して容易ではありません。一度非を認めると、それが個人の評価や立場を決定づけ、取り返しのつかないダメージを受けることさえあります。特に、SNSやメディアによって過ちが晒され、許しの余地が与えられない状況も少なくありません。「謝ったら負け」とさえ言われる風潮の中で、現代人はますます罪を認めることを恐れ、防衛的になってしまっています。
しかし、キリスト者にとって最も重要なのは、世間の評価ではなく、神との関係です。幸いかな、神は既に私たちを赦し、ご自身の方から和解の手を差し伸べて下さいました。キリスト者はその恵みに心から感謝しているからこそ世間を恐れず、隣人に「ごめんなさい」と謝ることができるのです。そして同じく赦せるのです。これこそが唯一無二、キリストの恵みの秘義であります。
確かに、キリスト者といえど、謝れず、赦せない時があるのは事実です。しかしそんな時、私たちは罪の赦しの恵みを無にしてしまっているのではないでしょうか。
受難節において私たちは、ただ赦されるのではなく、赦しの恵みを生きる者へと変えられて行きましょう。私はキリスト者ですが、キリスト教そのものを誇る者ではありません。しかし、この罪の赦しに生きる恵みだけは、胸を張って誇りたいと思います。罪深い私はこの恵みによって辛うじて、生かされているのですから。

孫 裕久

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