確信と疑念

映画『教皇選挙』の中で、ローレンス枢機卿は語りました。
「私が怖れるのは『確信』である。確信は寛容の敵だ。確信をもち、疑念を失った信仰は、意味がない。」
この言葉は、確信と疑念が必ずしも対立するものではなく、信仰において両者が共存すべきであることを示唆しています。
本来、私たちは「疑念は信仰の敵であり、確信がなければ信仰ではない」と思っているところがあります。しかし、確信が強くなりすぎると、他者の声に耳を貸さなくなり、異なる意見や感情を排除してしまう危険性を孕みます。そこに「寛容」が失われていくのです。
確信とは、揺るぎない「答え」であり、疑念とは、その答えに対するさらなる「問い」であると言えるでしょう。私たちは答えを追い求めるべきです。しかし、今見出している答えが決して絶対的なものではなく、常に暫定的なものであることをわきまえ知るべきです
歴史の流れの中で、昨日の正義が今日の暴力になり、今日の平和が明日の抑圧になることすらあります。この世で人間が持ちうる答えは、絶対ではなく、常に更新されていくべきものなのでしょう。それを踏まえない「確信」は、異なる声を排除し、やがて支配の道具となりかねません。
ゲッセマネの園で祈るイエスも、確かな「答え」を持っていたわけではありません。
イエスは苦悩の中で神に祈り、そして十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と問いを投げかけながら息を引き取られました。
信仰とは、矛盾を取り除いた整合的な答えを得ることではなく、不条理に満ちたこの世界において、それでもなお正しく問い続けていくことではないでしょうか。御心を求めて。

さればこそ、
問いを手放すことなかれ
光はつねに
問いのほとりに

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