人々の心に

例えば、生徒たちが学級会で遠足の行き先を話し合い、多数決で決めようとしていたとしましょう。それは単に行き先を決めるだけでなく、民主的な作業とルールを学ぶ場でもあります。ところが、ある強面の生徒が「面倒だから今日は俺が決める」と言いました。すると、誰も反論せず、それに従いました。
所詮、学級会など建前に過ぎず、いつも皆が彼の顔色をうかがい、彼の提案が「話し合いの結論」となっていました。もし「話し合いをしてもしなくても、結論は同じだから」という空気がその場を支配していたとしたら、それを注意できる大人が、今の世の中にいるでしょうか。
ロシアはウクライナ侵攻を正当化し、国々はこぞってトランプのもとに貢物を持って陳情しています。話し合い、国際協調、協定、人道、正義、そうした「建前」がいまだ語られますが、現実には、経済力、軍事力、「自国ファースト」の声の大きさが、世界を動かしています。そして気づけば、国々は「仕方ない」と諦め、なし崩しの現実に身を任せてしまっています。
先週、新たなローマ教皇が選出されました。何かを期待したい気持ちはあるものの、教皇が変わったからといって、世界が劇的に変わるわけではありません。教皇自身も、国際的な力や政治的影響力には限界があります。彼には軍もなく、経済制裁を科す力もなく、国連や他国のリーダーに命令を下すこともできません。ただ、語りかけ、祈り、呼びかけることができるだけです。今のこの時代にあって、それはあまりに非力に思えます。
しかし聖書には、力に対して黙らず、あえて語った預言者たちがいました。
王に抵抗し、戦争を戒めたエレミヤ。民の罪を告げ、剣を鋤に変えよと叫んだイザヤ。沈黙せずに神の愛と赦しを語ったイエス。彼らは権力を持ちませんでしたが、その言葉が歴史に深い影響を与え、今も私たちの心に希望として働いています。
教皇が変わっても、戦争が終わるわけではありません。それでも、教皇の呼びかけや祈りが、人々の心を動かし、歴史を少しずつ変えていく力になると信じたいです。そして私たちも、共に祈り、人々の心に呼びかけてまいりましょう。

孫 裕久

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