戦争はしないという哲学

終戦の日を迎え、各地で「二度と戦争をしてはならない」という声があがっています。それ自体は大切なことであり、語り続けていかねばなりません。しかし不戦の決意は、ただ「しない」と言い続けていれば実現するものではありません。現実には、憲法改正の議論や核の抑止力を肯定する声、集団的自衛権の拡大、さらには武器輸出の容認など、私たちの足元にじわじわと武力行使を可能にする包囲網が狭まりつつあります。
また「日本人ファースト」「自国の利益を最優先に」という言葉が、まるで正論であるかのように、恥じらいもなく語られています。こうした考えは、昔から人間の本音としては心の中にあったのだと思います。しかし以前は、それを口にすることに対して、ある種のためらいや節度が働いていました。しかし今、それが弱まりつつあることに強い危機感を覚えます。
今年の8月に思うのは、広く一般に認められている平和を希求する声に「戦争はしない」という哲学が欠けているのではないかということです。「戦争はしない」とは、ただそれを言い続けることではなく、これは全ての議論の前提なのです。他国の戦闘機が領空に接近したと報じられたとき、「ではこちらも防衛力を強化しよう」という発想に至るのではなく、「戦争はしない」という土俵で考え知恵を絞り、戦争という可能性の引力に1ミクロンも引き寄せられることのないように抗っていくことなのです。
戦争体験者が年々減少する中、今や「戦争はしない」と言うだけでは、現実の動きに飲み込まれてしまいそうです。平和とは本来、もっと能動的に選び取られるべきものではないでしょうか。暴力に飲み込まれない道を探し続け、せめて、遠い国の紛争や難民の報道に耳を閉ざさないこと、祈りの中に覚えることなど。
イエスは言われました。「平和を実現するものは幸いである」。この実現するという言葉には、平和は願うだけではなく、日々の選択と歩みの中で具体的に築かれていくものだというメッセージが込められています。
イエスように、自分の義を得ることに専念するのではなく、他者の痛みに気づき、隔てを越えていくこと。その歩みの積み重ねに平和は宿る。この8月、もう一度、自分自身の生き方を問いながら、「戦争はしない」という声に魂を込めたいと思います。

孫 裕久

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