不安からの脱出

今、私たちの社会は、見えない不安に覆われています。将来への不安、経済の不安、国際情勢の不安。その中で「まず自分と家族を守らなければ」と思うのは自然なことです。しかし、その思いがいつの間にか「他者より自分を優先する」という心に変わるとき、社会は静かに分断へと傾いていきます。
「日本人ファースト」「都民ファースト」といった言葉が、人々の不安に寄り添うようでいて、実は他者を後回しにしてもよいという空気を生み出しています。安心を求める心が、気づかぬうちに他者を犠牲にします。パウロはそれを「貪欲」と指摘しました。(エフェソ5.3)
昨日、自民党の総裁選が行われました。候補者たちは異口同音に「移民政策反対論」を唱えました。「治安が悪化する」「文化が乱れる」「社会が不安定になる」そのような懸念が根底にあるのだと思います。しかし、その言葉の裏には、外国人を「共に生きる隣人」としてではなく、「脅威」として見る視線が潜んでいないでしょうか。不安が強まるとき、人は自分の安心のために、他者を排除してしまいます。しかし、それでは不安は決して解消されません。むしろ、孤立と対立を深めるだけです。
「共生」とは、同化でも融合でもありません。互いの違いを認めつつ、共に歩むことです。それは、恐れや不安から逃げる道ではなく、その不安を越える道です。人は孤立の中で不安を増幅させますが、他者とのつながりの中で初めて不安を手放すことができます。だから、共生とは「不安からの脱出」の道なのです。
「自分が、自分が」と声を張り上げる社会の中で、イエスは静かに語られました。
「自分の命を救おうとする者は、それを失う。しかし、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マルコ8:35)
自己防衛の壁を少し越えて、隣人に手を伸ばすとき、そこに新しい平安が生まれます。共に生きるとは、まさに不安を越える信仰の形なのです。
恐れ越え 隣に立てば 風やさし
ともに息づく いのちのぬくもり
孫 裕久

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