汚れ

先週の説教で結論部分を落としていたように思い一週一言で補足させていただきます。
そもそもユダヤ人にとって汚れの問題(清浄規定)はアイデンティティーの問題でした。捕囚の民がバビロニアに同化しない為、食べ物等に制限を設けたことに始まります。清浄規定の本質は何が汚れているかではなく食べ物や対人関係に制限を設けてヤハウェ信仰を守ることにありました。しかし次第に形骸化し、信仰を守るために、汚れから自らを排除するのではなく、共同体の中から汚れたものを遠ざけ排除すること関心が移行していったのです。即ち少数者が多数者に同化しないためではなく、少数の汚れた分子(異邦人、罪人等)との接触を避け排除することで共同体の清さ正しさを保とうとしたのす。
イエスが「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」(15.18)と言ったのは、自分の清さ正しさ守るために、汚れた分子を排除しようとする「心」こそが真の「汚れ」なのだということです。イエスは形骸化した清浄規定を厳しく批判しました。教会は自らが清く正しくあるために罪人を排除するところではありません。むしろ排除されたものと交わり、彼らの居場所となるべきところなのです。(難しいことではありますが・・・)

孫 裕久

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