マルコ15:33-39
《矛盾》 前に言ったこととあとに言ったこととが一致しないこと。一般に、
矛盾を認めるとは矛盾があっても良いという意味ではない。矛盾は
十字架の叫び(否定)をゲッセマネの祈り(肯定)と無理につじつ
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのか」(マルコ
「これは主イエスから聞きたくなかったお言葉である」と言ったそ
「矛盾がある」。それを認めずそれと向き合わない者たちがイエス
だから私たちは最早無理につじつまを合わせなくてもよい。即ち自
孫 裕久
マルコ15:33-39
《矛盾》 前に言ったこととあとに言ったこととが一致しないこと。一般に、
矛盾を認めるとは矛盾があっても良いという意味ではない。矛盾は
十字架の叫び(否定)をゲッセマネの祈り(肯定)と無理につじつ
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのか」(マルコ
「これは主イエスから聞きたくなかったお言葉である」と言ったそ
「矛盾がある」。それを認めずそれと向き合わない者たちがイエス
だから私たちは最早無理につじつまを合わせなくてもよい。即ち自
孫 裕久
聖書を開くのは教会に来た時だけ。
受洗した時に教会からいただいた大型の聖書は、ほとんど新品のまま。
聖書をちゃんと理解しているとは、とても言えないが、思ったことを書いている。
ゲッセマネの祈りと十字架上の祈りが矛盾しているとの指摘は、言われて初めて気が付いた。
聖書を殆ど読んだことのない私でも、復活前後のこの箇所は何度も聞いているが、今まで矛盾だと思ったことはなかった。
たぶん、これは歴史的に記録された事実なのだろう。
しかし、私にはこの場面は物語りだ。
もし、これが作り話だったとしても、いや作り話だったとしたら、十字架上の叫びほど、この場面にふさわしいセリフはないと思うのだが、そう思うのは私だけなのだろうか?
私は聖書を開くのは教会の他に、キリシタン巡礼 キリスト教遺産へ訪問した時に弁当を広げて聖書を開いて読む時があります。 キリシタン巡礼 キリスト教遺産を訪問するとオーラが沸いて神様から恵みとパワーを頂いております。 神様が私に人生一度きりを与えてくれて様々なところへ旅をしながらキリスト教遺産を巡るのも凄く
感動しました。 私が生きている間にキリスト教遺産にあしあとを残していくでしょう。