ゴミ捨て場に咲く花

先週の水曜日、ゴミを捨てに行った時のこと。ゴミ捨て場に、花が咲いていた。それを見て、何となく場と合っていないように感じた。
きっと、公園の片隅に咲いていたなら、気づくこともなかったかもしれない。しかし、それがゴミ捨て場であったことで注目を引いたのだろう。そして同時に、「人間が何を、どう見ているか」という認識のメカニズム、率直に言えば偏見に、はっと気づかされた。
よく考えてみれば、花にとってそこがゴミ捨て場であるかどうかは関係ない。
風に乗って種が落ち、雨に打たれて芽を出し、太陽を浴びて花が咲いた。ただ、それだけのこと。
「ここに咲くには、場に合っていない」
そう感じたのは、社会性を持つ人間特有の判断である。私たちが社会の中で定めた「ここは公園」「ここは道」「ここはゴミ捨て場」といった区分。その秩序の中でしか見えていない、あるいは見ようとしない風景がある。
昔、生物の教員である信徒に言われた言葉を思い出す。
確か、多摩川の土手に座りながら、私はこう尋ねた。
「雑草でも、食べられる草はあるんですか?」と。すると彼は静かに答えた。「雑草という草はありません。」
その言葉に、私はハッとした。人が「雑草」と呼ぶものの中にも、名前があり、命があり、美しさがある。
ゴミ捨て場に咲く花も、道端に生える草も、すべてはそれぞれに生かされている存在なのだ。
花は場所を選ばない。ただ、与えられた場所で静かに咲く。
それを不思議に感じるのは、人間の身勝手な偏見であるといわざるをえない。
イエスは福音を種に喩えているが、神の言葉もまた、場所を選ばない。
私たちが気づかず、また場違いと思うところにも、福音の種は落ち、芽を出し、時に花を咲かせる。
むしろ、人の目にはゴミ捨て場のように思える場所にこそ、神のまなざしが注がれているのかもしれない。
ゴミ捨て場に咲いた花。その姿が、私の心を正した。
「あなたは、どこにでも咲けるか?」そう問いかけられているようであった。

孫 裕久

1件のコメント

  1. 先日は心に沁み入るお話しをありがとうございました。

    愛を持って奉仕する、相手を尊重する、自分たちの教義や価値観を絶対視しない、とのお考えでのご活動。自分におきかえると会社の組織運営、活動でも思い当たる節がある、ととても心を動かされながらお話しを伺いました。

    また、ゴミ捨て場に咲く花の逸話もとても共感を覚えます。お花も含めてあらゆる生きとし生けるものが、それぞれの想いを持って、安寧の地を求め、辿り着き、逞しく日々を紡いでいるのではなかろうか、と思いました。

    再び、お話しをお伺いする機会があればと再会を楽しみにしております。

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