高い内閣支持率のもとで、防衛費が拡大されていくことに、危ういナショナリズムの臭いを感じる。
防衛省や自衛隊が、防衛の観点から最悪の事態を想定するのは、職務上、ある意味で当然である。「攻められたらどうするのか」「どこからが存立危機なのか」。それらを明確にしようとする姿勢自体を、単純に非難することはできない。
しかし、平和を希求することと、防衛力を強化することは、必ずしも軌を一にするものではない。冷戦の歴史が示しているように、軍事力の拡張はしばしば緊張と不信を増幅させ、平和を保証はしなかった。
南アフリカ共和国で初の黒人大統領となったネルソン・マンデラ氏は、武力による抵抗ではなく、白人との対話に希望を見いだした。敵にどう対処するか、という軸ではなく、どうすれば関係そのものを変えられるか、という問いを政治の中心に据えたのである。
もちろん、防衛や安全保障には、一般市民には知らされていない複雑で困難な事情があるのだろう。しかし、日中関係が悪化する一方で、高い内閣支持率に支えられ、防衛費拡大が大きな反論もなく進んでいく現状には、強い危機感を覚える。
いま私たちに求められているのは、防衛を重ねる知恵ではなく、対話の接点を探し続ける知恵ではないだろうか。この日本という国は、その知恵がいささか貧しいのは、なぜなのだろうか。
平和は、相手をどう抑え込むかではなく、関係をどう編み直すかの中でしか育たない。そのための知恵、即ち想像力と忍耐を、私たちは本当に磨こうとしているのか、いま一度、そのことを自らに問い直したい。
待てずして
手を離す人に 神はなお
待ちつづけつつ
名を呼びたもう