「世界中に平和と繁栄をもたらせるのは、ドナルドだけだと思っている」
先日の日米首脳会談で、高市首相が放ったこの一言。それは単なる外交上の「ご機嫌取り」などではなく、彼女が本気でそう信じているからこその言葉に聞こえた。しかし、その「世界」に、今まさにアメリカの攻撃で数千の命が失われているイランは含まれているのか。称賛の陰で流される血を無視した「平和と繁栄」とは、一体誰のためのものなのか。私は言いようのない憤りを覚えた。
この剥き出しの言葉に対し、国内の各党は三様に反応した。共産党は「史上最悪の会談」と烈火のごとく怒り、国民民主党は直接の言及を避けながら日米首脳会談を概ね「成功」と追認した。しかし注目すべきは、中道改革連合の「その言葉は、必ずしも日本国民の多くを代表していない」という、どこか他人事のような一言である。
それは、自らの意志を表明した言葉ではない。右にも左にも寄らないことを選ぶあまり、自分たちが何者であるかを語る言葉を失ってしまった姿に見えた。その立ち位置を例えるなら、「川崎市とは、東京にも横浜にも一駅で行けます」と説明するようなものだろう。隣接する他者との距離感でしか自分を定義できず、肝心の「自分たちは何者か」「何を信じているのか」という中身が空っぽなのだ。自民に擦り寄るのも、共産と同じに見られるのも嫌だという消極的な保身が、「中道」の内実になってはいないか。
確かに何でもかんでも「ズバッ」と言えば良いというものではない。しかし、ここだけは「ズバッ」と言わねばならない場面がある。とりわけ、暴走する権力に対しては、沈黙は加担と同じである。
イエスは「ズバッ」と言う人であったと思う。保身や忖度など微塵もなく、ただ真理(それは一匹の側から)のために、自らの命を賭して言葉を放った。
ここに「教会と国家」の本質が隠れている。教会にとって、み言葉を宣べ伝えること、隣人に寄り添うこと、どれも大切である。しかし、その先に、「ズバッ」と言って十字架に賭けられたイエスの姿が見えているか。そこに照準が定められているか。この受難節、私たちは、そして日本基督教団は、自らの口から出る言葉が、空虚な「中道」に逃げていないか、今一度、厳しく問い直そう。
孫 裕久