人格を重んじる

こどもの日とは、祝日法によると「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とあります。この「こどもの人格を重んじる」とは具体的には何であり、キリスト教的にはどう解釈されるのでしょうか。
人格の意味を辞書で引くと哲学的で難しくよく分かりません。しかし人格者を引くと、すぐれた人格の持ち主、すぐれた人柄で、また気品の高い人、とありました。どうやら人格というものには優劣があるようです。因みに人格の類義語として、人間性・性格・品性・品格・人柄・器量・器・性質・気質などが記されています。
こどもは経験と学びが浅く、以上に当てはめれば未熟で人格的には劣る存在です。そこで「こどもの人格を重んじる」とは、こどもは未熟で劣るけれど、だからといってその人格を軽んじてはならいということであり、平たくいえば、こどもだという理由だけでこども扱いをしないということでしょう。
いつからでしょうか、私は初対面のこどもには敬語を使うようになりました。それが初対面の人に対する礼儀ではないかと思ったからです。確かに大人はこどもを教え導く関係にありはします。それでも人として対等に向き合う礼節を大人に要求しているのが「こどもの人格を重んじる」ことではないかと思います。
これに対してイエスは「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタイ18.4)と教えています。これは神の前に誇るものが何も無いキリスト者は、親の助けなしに生きていけない無力さを知っている幼子こそがむしろ一番偉いのだということです。言い換えるなら「こどもの人格を重んじる」時、その人格の優劣が逆転しており、人として対等であろうとする努力の遙か先をイエスは追求しています。
こどもの日、こどもの人格を重んじることを通して、大人でありキリスト者である自分自身を振り返る日としたいものです。

孫 裕久

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