失われた者を捜すために

違法薬物事件による日大アメリカンフットボール部の廃部を巡り、経営陣の対応と責任、また事件に関わりのない学生たちへ同情を寄せる声が報道されています。しかし事件を起こした当事者たちの将来について語る声が聞こえてきません。
事件の幕引きの道具として廃部をはかられた部員たちは確かに被害者でありそこに同情が寄せられるのは当然です。一方事件を起こした者たちはその無責任な行為によって多くの関係者に迷惑をかけてしまいました。彼らは裁判で裁かれ社会的制裁を受けることになります。彼らは今後、元日大アメフト部を口にすることは出来ず、就職はおろか、アメフトそのものも出来ないでしょう。自業自得といえばその通りです。
しかし私はいつもこういった事件に遭遇する度に思うのですが、その登場人物の内、イエスの隣人とは誰なのだろうかと。悪いことをしかたら裁かれ、その身に受ける制裁は当然の結果です。しかし当事者に対する世間の考察はいつもそこで終わっているように思うのです。
身から出た錆なので放って置かれても仕方ないでしょう。しかしイエスはそういう人を放って置けない人だったのだと思います。例えそうなった経緯がどうであれ放置された者をそのままに出来ない、そのままにする集団の中に身を隠さない、自らも罪人の一人に数えられようともその友になられるお方、それが私たちの信じる神なのです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」ルカ19.10

孫 裕久

1件のコメント

  1. 私は決して死刑廃止論者ではないが、オウム真理教の麻原彰晃を死刑したのは残念でならない
    彼には生きてやることがあったのではないか?
    オウム真理教の後継団体は今も活動していて、あろうことか未だに彼を神として崇めているらしい
    彼を殺すべきではなかった
    私は上野動物園の一画に、人間という檻を作って、そこで彼を晒し者にした方が良かったのではないか
    そして、その事に耐えられなくて麻原が自殺でもすれば、その惨めな姿が今の信者の目を覚ますのに役立ったのではないだろうかと思っている

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