十字架に架けられた神

マルコ15:33-39

《矛盾》 前に言ったこととあとに言ったこととが一致しないこと。一般に、理屈として二つの事柄のつじつまが合わないこと。

矛盾を認めるとは矛盾があっても良いという意味ではない。矛盾は良くない。しかし良くないから無理につじつまを合わせるのはもっと良くない。否、罪である。

十字架の叫び(否定)をゲッセマネの祈り(肯定)と無理につじつまを合わせる解釈は、神の声に耳を傾けず、自分の耳に合った声を神に語らせるようなものである。十字架は人間の神に対する態度を暴露する。

「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのか」(マルコ15:34)

「これは主イエスから聞きたくなかったお言葉である」と言ったそのあなたが又わたしが、主を十字架に架けたのではないか?全く矛盾している。私たちは十字架によって自らの罪を知るように矛盾をも知る。矛盾している。しかしこの世は矛盾を放置しない。確かに矛盾は放置すべきではない。しかし無理につじつまを合わせてしまうと犠牲者を生む。安息日に病人は放置され、生まれつき目の見えない者の両親は罪人にされ、教師委員会は「戒規提訴を扱うことに関する内規」から戒規提訴者に関する条文を削除して北村牧師は免職戒規となった。

「矛盾がある」。それを認めずそれと向き合わない者たちがイエスを十字架に架けた。罪人たちはつじつま合わせの犠牲者となった。主は十字架で私たちの矛盾をも担われた。私たちの罪が主を十字架に架けその十字架によって罪が赦されたように。

だから私たちは最早無理につじつまを合わせなくてもよい。即ち自分を正当化する為に努力しなくて良い。つじつま合わせは思考の停止である。矛盾を認めよう。そこにハッキリと在る矛盾と向き合おう。そこから共に考え歩みだそう。その先に復活の希望があるのだ。

孫 裕久

2件のコメント

  1. 聖書を開くのは教会に来た時だけ。
    受洗した時に教会からいただいた大型の聖書は、ほとんど新品のまま。
    聖書をちゃんと理解しているとは、とても言えないが、思ったことを書いている。

    ゲッセマネの祈りと十字架上の祈りが矛盾しているとの指摘は、言われて初めて気が付いた。
    聖書を殆ど読んだことのない私でも、復活前後のこの箇所は何度も聞いているが、今まで矛盾だと思ったことはなかった。
    たぶん、これは歴史的に記録された事実なのだろう。
    しかし、私にはこの場面は物語りだ。
    もし、これが作り話だったとしても、いや作り話だったとしたら、十字架上の叫びほど、この場面にふさわしいセリフはないと思うのだが、そう思うのは私だけなのだろうか?

  2. 私は聖書を開くのは教会の他に、キリシタン巡礼 キリスト教遺産へ訪問した時に弁当を広げて聖書を開いて読む時があります。 キリシタン巡礼 キリスト教遺産を訪問するとオーラが沸いて神様から恵みとパワーを頂いております。 神様が私に人生一度きりを与えてくれて様々なところへ旅をしながらキリスト教遺産を巡るのも凄く
    感動しました。 私が生きている間にキリスト教遺産にあしあとを残していくでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です