労働聖日

本日は教団のカレンダーで「労働聖日」と定められています。私たちはこの主日をどのように守ればよいのでしょうか。
そもそもキリスト教において労働とは、汗水流して財産を蓄えるものとされ、それは礼拝と信仰の対局に置かれていました。即ちお金を貯めることは卑しい行為で、余分なお金があるなら教会に献金しなさいということです。(マタイ6.19-24)
しかし宗教改革でカルヴァンが労働と貯蓄を奨励しキリスト教で初めて、富を蓄えることが肯定されました。その根拠は彼の説いた「予定説」という少々面倒な話に遡り、その「予定説」の矛盾点を補う産物として労働の奨励が導き出され、且つその根拠が説得力に欠けるのです。
そこで後のプロテスタント教会は労働を肯定する聖書学的根拠(天地を創造した神の労働等)の発見と再確認に熱心となり、それが今日の「労働聖日」につながっているように思います。即ち「労働聖日」とはキリスト教的に労働を肯定し、その大切さを説く主日というのが現状です。
しかし以上はキリスト教文化に根ざした国々においては理解し易いですが、そうでない日本のような国において「労働聖日」とは実感し辛いものだと言えます。即ちそもそも私たちは労働を卑しいとする感覚を持っていません。
もし私たちがキリスト教において労働の意味を捉えるなら、先ず安息日と礼拝から考え始めるのが良いと思います。一週間、働いた疲れを癒やすのが安息日であるなら、教会とはまさにその安息の場であり礼拝はその時でありましょう。
労働の疲れを癒すなら礼拝中に寝るより家で寝ている方が健康的です。しかしそれでもなお教会にその時と場が用意されているとするなら、それはどのような教会でありましょうか。先ずそれを共に考えるところから「労働聖日」を守り始めては如何なものでしょう。

孫 裕久

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