最近、健康の為にと毎朝竹刀の素振りを始めました。会社をやめて30年以上になりますが、それ以来のことです。筋力、体力、足腰は衰え、最初は現役時代のように竹刀は馴染んでくれませんでした。ひと月以上が経過し、ようやく少しだけ竹刀が風を切る懐かしい音が聞こえ始めました。そして鏡に映る竹刀を構えた自分の立ち姿を見ていると、血が騒ぎだす鼓動と、今更という心の声がつばぜり合いをしておりました。
先週、気づいたら下平間にある武道館を訪ねていました。子どもたちの練習風景を見学し剣道を習い始めた頃の自分が脳裏を過ぎって心が弾みました。しかし、その後の成人の稽古を見た時、還暦を迎えた私の眼に、それはあまりに早く力強くその迫力に圧倒され、何かの気の迷いであったと静かに武道館を後にしました。それでも翌朝、素振りをしていると、ガンジーの言葉が聞こえてきました。「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」。
空白の時間に対する後悔の念、今更もう遅いという諦め、しかし、それらは全て今日をどう生きるのかというガンジーの言葉の前に一刀両断されました。
イエスの教えに置き換えるなら、それは決断を迫るものです。種まきの譬え話は、つまるところ、どうすれは種を実らせる事が出来るのかというテクニックの問題ではなく、私たちに決断を迫るものでした。この世はその決断を鈍らせるもので覆われています。信仰者というものはその覆われた壁の向こうへ飛び出していくものではないでしょうか。
孫 裕久