月例聖書の学びの会も終盤を迎えようとしています。ヨブとヨブを訪ねた友人たちの激しい議論が続きます。友人たちの基本的な主張は「神は、正しい者に祝福を、悪しき者に処罰を与えられる」であります。しかし現実はそうではありません。そこにヨブの苦しみがあるのです。人は苦難に意味を認める限り、その苦難を耐えられますしかしその意味が分からなくなった時、その苦難は人を圧倒するのです。
確かに、この世には理解し難い理不尽な苦しみや不幸があります。昨夜、娘(次女)の友人が亡くなりました。年末から体調を崩していたとのこと。危篤の連絡を受けた娘は病院へ駆けつけましたが、脳死の診断が下されたとのことでした。教会にお泊りした友人でもあり、帰宅した娘にかけてあげる言葉も見つからず、ただ一緒に泣くことしか出来ませんでした。ご家族の悲しみを思うと他人事とは思えず、まさに神にこの死の意味を問いたくなります。
苦難に意味などないと思いました。それは神を正当化するための意味にすぎません。この世には苦難が歴然と存在しているのです。苦難のただ中にあって、強引にその意味を見出そうとすることこそが理不尽なのです。水や空気があるように、この世には苦難があります。しかし生きる人はその苦難を乗り越えて行かねばなりません。
もしヨブが主イエスの十字架と復活を知っていたら、ヨブ記はどういう結末になっていたかと思いました。苦難のただ中にあって、その苦難に意味を見出すことは出来ません。しかし十字架と復活は、その苦難の先に希望を示しています。意味ではなく希望こそが人を生かすのではないでしょうか。イエスの十字架は復活の勝利により意味を獲得したのです。苦難に意味があるとするなら、否その苦難に意味を与えるものがあるとするなら、それはその苦難(十字架)を乗り越えた所にあるのでしょう。復活の希望を信じて共に生きてまいりましょう。
主よ、亡くなられた友に永遠の安らぎを、悲しみの内にあるご家族に深い慰めを、そして、それでも生きていく希望をお与えください。
孫 裕久