終末を生きる

終末論とは最終的にどうなるのか?それを歴史からひも解く作業といえます。即ち、歴史には始めがあり、終りがあり、そしてそこには目的がある、とする考え方です。キリスト教の場合、その目的とは神のみ心であって、それは人類の救済と和解です。
人が苦難に直面した時、その原因と末路に不安を抱くのは当然です。終末論はそのような、人が苦難に直面する時、社会的に不安定な時代に出没します。
終末論には、それを悪用したり希望を示したり種々あるのですが、キリスト教の場合は苦難の時代にあって神のみ心、ご計画を示すことが終末論と言えます。ここで重要なのは、神のみ心やご計画を語るにしても、具体的な現実の苦難に着目することが大切で、更にことさらその原因を強調する声に注意をはらうことです。
例えば、現実の状況が抱える諸問題に一切触れることなく単に世の終わりを説く声や、大震災などの原因を神の裁きなどと強調する声に惑わされない事です。
現在マタイによる福音書24章の終末論を学んでいる所ですが、「惑わされてはいけない」「まだ終わりではない」等、注意を喚起する言葉は、当時から人々を惑わす終末論が流布していたことが伺われます。
終末論について大切なのは、終末ありきから思考しないことです。将来についての考察は重要ですが、常に現実の諸課題から遊離しないこと。そしてキリスト教的には人類の救済と和解が目的であることを常に忘れないことです。
今、米大統領の一言一句で為替や株価が、そして諸国の政治が右往左往しています。明日のことを思い煩うのは致し方ないことかも知れません。しかし主イエスが「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6.34a)と言われるのは、惑わされず今日という一日を隣人と共に生きなさい、というメッセージなのです。今日という一日を生きる。即ち日々、今日が最後であるとする一日を生きる時、何が大切であるか(神のみ心)が明らかになる。とどのつまりそれが主イエスの説かれた終末論です。この終末を共に生きて参りましょう。主のみ心を知りたいと思うならば。十字架の道を行かれた主イエスに従うのであれば。

孫 裕久

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