見え方が変わるとき

人は自分の立ち位置によって見え方が変わる。99匹の羊の側に立つと、「なぜあの一匹のために、私たちは置いていかれたのか」と不満を口にする。「数の上で圧倒的に重要である我々が、なぜ列から離れたあの1匹のために迷惑をこうむらなければならないのか」と。
しかし、自分がその1匹の立場に置かれた時は「見捨てられなかった」「忘れられていなかった」という喜びで満たされる。
羊飼いの行動は変わらない。ただ、自分の立ち位置によって、その意味がまるで変わってしまう。
そしてもうひとつの立場がある。99匹でも、1匹でもなく、羊飼いでもない「観察者」の立場である。彼は物語の外から眺め観察しながら冷静にあれこれ批評する。「この羊飼いは非効率的だ」とか、「多数を優先するべきではないか」と。けれど、どこにも痛みを引き受けず、誰の側にも立たないまなざしに、真理は見えてこない。そもそも、そんな机上の立場は、現実世界には存在しないはずなのだ。
イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナ、移民や難民の問題。多くの命が失われ、声なき叫びが置き去りにされている。遠くからニュースを眺めて、どちらか一方を非難したり、同情したり、心を痛めたりする。けれど、それはあくまで観察に過ぎず、観察しながら、私たちは何か大切なものを失っている気がする。毎日報道される死者数に麻痺している自分が怖い。
神は、世界をすぐに変えてくれるわけではない。しかし、信じることによって、私の「立ち位置」が変わる。立ち位置が変わると、世界の見え方も変わる。そして、ふと気づくのだ。自分もまた、この物語の中にいることを。この世界と無関係ではいられず、どこかで誰かとつながっていることを。現実は決して机上の問題ではなく、私もまた関わりをもって生きているのだ。
信仰とは、読み手に留まらず、物語の中へと私たちを招き入れる。そして、イエスが見ていた風景が、私にも見えてくるのだ。

孫 裕久

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