履歴書の学歴とは、本来「学びの履歴」であり、 その人がどのような学びをしたか、 どのような専門性を持っているかを知る手がかりだと思う。 しかし現実には、学歴はしばしば「偏差値の記号」 として扱われる。
以前、ある牧師の学歴に「◯◯大学中退」 と記されているのを見た。それが学歴として成立するのは、◯◯ 大学という「入り口」の偏差値が評価されているからだ。「 何を学んだか」ではなく、「どこに入ったか」に意味が置かれ、 それが学歴の本質になってしまっている。
「学歴なんて関係ない」という人がいる。 確かにそうかもしれない。しかし「偏差値の記号」 としての学歴には本質的な意味はないのに、 現実には社会はその学歴を「見て」いる。そして皮肉なことに、 学歴を「見ている」のも、「見られている」のも、 同じ私たち自身なのだ。
学歴に対するコンプレックスや執着こそが、 学歴社会という現実を支えている。 私たちはその被害者であると同時に、その再生産者でもある。 そして時に嘘をついてしまうのだ。
人間は社会的な存在であり、社会の中で生きる以上、 その社会に順応するよう求められる。しかし、 そもそも社会を作ったのは人間である。ならば、人間、 すなわち私自身が、 その社会を変えていく可能性を持っているはずだ。
罪人を裁くことで、 自らを義人としようとする社会をつくったのは、 やはり私たち人間だった。しかしイエスは、 裁かれた罪人の友となった。そして、 この世はそのイエスを罪人として十字架に架けたのである。