平和の第一歩

近年、「◯◯ファースト」といった言葉が、社会に強い影響を与えている。これは、自国民や地元住民の利益を最優先する考え方であり、一見もっともらしく、正しいようにも聞こえる。
確かに「まず自分たちを守る」「まず身近なものを大切にする」という姿勢は、ごく自然な感覚である。誰しも、自分を大切にし、自分の家族や共同体を思う。それ自体は否定されるべきものではない
しかし、「自分たちを第一に」という考え方には、そこに含まれない他者(空間的にも、また文化的・社会的に遠い存在)への無関心や無理解を促進してしまう危険がある。
そうした無関心、無理解が積み重なっていくと、人間はやがて欲望を制御する力を失っていく。他者への関心や理解は、本来、私たちの欲を抑える働きを持っている。だが、それが失われたとき、欲望は肥大し、他者を犠牲にすることすら正当化されてしまう。
その正当化の言葉として、「自国の安全」や「自分たちの利益」などが主張され、ごく自然に受け入れられているのではないだろうか。これこそが、今日の社会に広がる傾きではないか。そして戦争とは、そうした心の傾きが、やがて政策や行動として現れてくる過程なのではないかと思う。
イエスは言われた。「隣人を愛し敵を憎め、と命じられている。しかしわたしは言っておく、敵を愛しなさい・・」と。これは、自己優先の論理に真っ向から逆らうメッセージである。隣人は近い存在、敵とは最も遠い存在を象徴している。「敵を愛する」とは、理論上は矛盾しており、実践困難な命令である。しかしそこには、遠い他者を無視し、犠牲にしてまで自分だけが潤おうとする姿勢を否定する意志が込められているのではないか。
8月、反戦と平和を祈る月を迎えた。私たちは、自分を大切にし、身近な存在を守ろうとする。その思いは自然なものである。しかし、その「自然さ」が、他者を切り捨てる口実になっていないか、自らを問い直す必要がある。この8月、そうした問いから、平和への第一歩を踏み出していきたい。

孫 裕久

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