神学校に入学した1991年の春、学生寮の掲示板に一枚の紙が張り出された。それは新しく選出された学生会会長、彼の所信表明であった。
入学したばかりで、神学校の歴史も神学用語にも慣れていない私には難しい内容だった。しかし、その中の一言だけは、今もはっきりと記憶に残っている。
彼は、ある日、私にこんな話をしてくれた。「うちのおばあさんが言ってたんだけどね。旧約聖書には正しいことも間違ったことも書いてある。でも新約聖書は、正しいことしか書いてない」と。その意図は「だから新約聖書は信用ならん」ということだった。おばあさんは「完璧な書などありえない」という皮肉を込めていたのだろうか。
何が正しいことか、それを現場で突き詰めると、実はとても難しい。その「正しさ」を受け入れる素地が、社会や共同体にないとき、正直にそれを生きる人が馬鹿をみるからだ。神の国を語るこの世は、神の国ではない。正しさと間違いが混在している。だから聖書の言葉をそのまま生きようとすると「馬鹿を見る」。
しかし、そもそも十字架とは「正直者が馬鹿をみる」ことの象徴ではないだろうか。そしてその「馬鹿さ加減」が、世の罪を映し出している。
所信表明の真意は、そうした正直者に十字架を一人で負わせない学生会(共同体)をつくろうという決意だったのだと、今では理解している。
人はときに、迷い出た一匹の羊になるときがある。また、その一匹を探しに行く羊飼いに不満を漏らす九十九匹の側に立つこともあり、あるいは、その狭間で苦悩する羊飼いになることもある。今日の私は、どこにいるのだろうか。どこにいようと、あの所信表明は「正直者が馬鹿をみることのないように」と耳元で囁くのだ。
本日は、その彼をお招きし、御言葉に預かりますことを感謝いたします。
正直を 笑う世の中
あれどなお
共に担わん 十字架の道