人生の最高の喜び

先週、病院を舞台にしたドラマを見ました。過酷な労働環境の中で働く看護師が、患者からのハラスメントにどう向き合うべきかをめぐる場面でした。声を上げれば、それはそれで仕事が増えてしまう。それなら我慢して、知らぬふりをした方が結果的に楽なのではないか――そんな現実的なやり取りの中で、主人公がナイチンゲールの言葉を引用します。「看護とは犠牲行為であってはなりません。人生の最高の喜びのひとつであるべきです」。
キリスト教の愛は、しばしば「自己犠牲愛」と説明されます。また、パウロが語る愛も「忍耐」を強調します。しかし、犠牲には必ず限界があり、それを長く続けることは容易ではありません。主イエスは「自分の十字架を背負って、わたしの後に従いなさい」と語られましたが、十字架とは重たいものです。そして、その十字架を看板に掲げているのが教会です。こうして並べてみると、キリスト教の愛は、どこか難しく、つらいもののように感じられてしまいます。
看護は、愛の奉仕の一つと言えるでしょう。そして、その現場が私たちの想像以上に過酷であることも確かです。決して「喜び」という言葉だけで語れる世界ではありません。ナイチンゲールについてほとんど知識のない私には、彼女を語る資格はありませんが、負傷兵を献身的に看護した彼女自身、看護の厳しさを誰よりも身にしみて知っていたはずです。それでも彼女が「看護は喜びである」と語ったとき、その喜びとは何だったのでしょうか。
それは、単なる精神論ではなかったと思います。たとえ99%がつらく、報われないように思える日々であっても、その中に1%の、確かで揺るがない喜びを見いだしていたのではないでしょうか。
イエスの愛は、十字架で示されました。十字架は重く、誰も進んで担ぎたいものではありません。それでも「犠牲を払っても、人のためにすることがあるのではないか」と問われるなら、そこにからし種一粒ほどでも喜びを見いだしながら歩みたいものです。犠牲を美化するのではなく、その僅かで、しかし確かな喜びを根拠として。その上で、ナイチンゲールにあやかって言わせてもらいましょう。「愛とは、自己犠牲ではなく、人生の最高の喜びのひとつです」。

奉仕とは
犠牲にあらず
人の世の
いのちの喜び
極まるところ

孫  裕久

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