捧げる感謝

「何か夢はあるか?」と、私はスギュに尋ねた。スギュはスマホを手にしたまま「別にない」と答えた。スギュは芝栄さんの甥で、この春、高校生になる。先週17日から21日の日程で、芝栄さんのアボジが、弟(四男)と、その息子であるスギュとヨンギュ(小6)を伴って来日した。その二日目の18日、河口湖に宿を取り、団らん中のことである。
ヨンギュは好奇心旺盛で、こだまのように反応する。しかしスギュはスマホを離さず、あまり目も合わさない。高校生に夢がないというのもいかがなものかと思った。しばらくして「では不満は?」と問うと、「不満も別にない」と、期待どおりの答えが返ってきた
「夢も不満もない。実はそれが平和というものではないか。その平和を作ってくれた先輩たちに感謝しないとね」と言うと、ヨンギュが間髪入れず、「さすが牧師様」と、まるで歌舞伎のおおむこう(声援)のように応じて、皆の笑いを取った。しかしスギュの表情は変わらなかった。
確かに子どもたちにとって、大人たちの会話はつまらないものだ。彼の楽しみは明後日、影愛と渋谷にいくことで、それまでは忍耐の時間であった。しかし、何とかスギュと会話らしい会話をしたい、彼の笑みを見たいという欲求を、私は抑えられなかった。
「スギュよ、ここに親孝行したいコモ(叔母)がいる。コモはハラボジを迎えて、親孝行ができて本当に喜んでいる。コモブ(叔母の夫)も、コモの喜ぶ顔を見て嬉しい。スギュとヨンギュのお陰です。君たちがハラボジと一緒に来てくれたお陰で、コモは親孝行ができました。カムサヘヨ。」
その時、はじめてスギュはスマホを置き、私に笑みを返してくれた。それはただの愛想笑いではなく、親に同行し、面白くもない時間を過ごしているだけだと思っていたこの旅が、コモの喜びとなり自分がここに来た意味があったのだと、腑に落ちたような笑みであった。更にその笑みは、私の説明や理屈ではなく、感謝そのものが届いたしるしのようにも見えた。
感謝とは、教え勧めるものではなく、自ら捧げるものでした。

孫 裕久

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