「これは、私の愛する子、これに聞け」という声を、キリスト者は当然のように知っています。知っていながら、弟子たちはイエスの受難予告を理解しません。ここに「これ」の意味の食い違いがあります。弟子たちにとって神の子メシア、すなわち「これ」は、ダビデ家を継承するユダヤ人の王であり、その王の左右に座する夢を抱いています。しかし神が示すのは、十字架で朽ち果てるメシアです。このメシアは、すべてに仕える僕です。ゆえに弟子たちにとって、十字架は躓きでした。主の心を知らず、見返りを求めていた自分の醜さに出会うことになったのです。
キリスト者は神のみ心を求めます。しかしそのみ心は、自分の欲を満たす高き所にあるのではなく、隣人に仕える低き所にあります。
ある歌に、「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうが良い」という一節があります。確かに、もし私がキリスト者でなければ、この一節には頷けます。良い歌です。しかし十字架の信仰は、「お前はなぜ傷つくのか。そもそも何を求めていたのか」と問いかけてきます。人間は自分を捨てきれず、どこかで有形無形の見返りを求めてしまっています。人を信じて傷ついたとき、信仰は私の「隣人を自分のように愛する」という、その愛の内実を問うのです。
キリスト者が、すべてに仕える僕となるのは、そこに「これに聞け」という声を聞きたいからではないでしょうか。ダイヤモンドや金ではない、朽ちない永遠の宝があると信じているからではないでしょうか。人間としてこの世に生を受け、人キリスト者として生涯を全うするために、「これは、私の愛する子、これに聞け」というその声を追い求めてまいりましょう
十字架の
前に立たされ 知る真理
教えにあらず
向き合いて触る
孫 裕久