真理と向き合う

受難週の早天祈祷会で、ヨハネ福音書17章から19章までを読みました。第4日(18:15-19:16)。捕らえられたイエスが大祭司のもと、さらに総督ピラトのもとで取り調べを受ける様子が描かれています。しかし、裁かれているのはイエスであるにも関わらず、ヨハネは、イエスを取りまく人たちの有り様を描きます。言い換えるならば、真理に背を向ける人間の姿です。
先ず、ペトロはイエスを「知らない」と関係否認します(18:17, 25–27)。これは、恐れによって関係を手放す人間の弱い姿です。
次は、ピラトが「真理とは何か」と問いながら(18:38)、目の前の処理を優先して、問いと向き合わない姿です。
三つ目は、ユダヤ教指導者たちは汚れを避けるために建物の外にとどまりながら(18:28)、同時にイエスを死に引き渡し、「皇帝のほか王はありませんと」証言した。これは、正しさよりも立場や都合を優先する姿です。
最後に、下役や兵士たちがイエスを平手打ちします。(18:22)(19:1–3)。 ここには、弱者には暴力で応じてしまう人間の姿です。
真理は主体です。真理は人によって説明されるものではなく、真理が「あなたは何者か、如何に生きるか」を私に問うのです。
真理は、背を向ける者と向き合う者、その両方を映し出します。そして真理に向き合うとは、正しい人間であることではなく、ありのままの自分をさらけ出すことなのだと思います。神の足音を聞いて隠れたアダム、しかし結局は裸のままで神の前に立たされたアダム。その姿は、真理の前に立つ人間の原型なのかもしれません。キリスト者とは、善人や義人であること以上に、なお神に背を向けず、真理と向き合おうとする者ではないでしょうか。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です