イスカリオテのユダ

「重複障害者は人の形をしている物であり人間ではない」

先週、真にショッキングな事件に遭遇しました。マスコミは事件の残虐性と容疑者の思想を連日報道しています。以下は慎重を要する自覚の下に記します。

私は少し変なのかもしれません。このような報道に触れる度に、それを語り見聞きする人間のそして私自身の虚しさを覚えます。特に今回の事件はヨハネ福音書を学ぶ時に照らして特にそうでなのです。

「言の内に生命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1.4-5)

故に暗闇は光を殺したのでしょう。光は闇に隠された人間の悪を明らかにします。光は人間を自分自身と向きあわせます。それは苦しい作業です。容疑者の罪を擁護しているのではありません。彼は光(障がい者)に照らされて苦しんだのです。私も経験があります。障がい者と向き合う時、たまらない程、自分の偽善や身勝手さを突きつけられます。それから逃れる最悪の選択肢が冒頭の彼の言葉「・・・人間ではない」です。イエスの敵対者は、そして彼は「光を理解しなかった」即ち光を無きものとしました。

「光の中に身を投じない者に彼を避難できない」とは申しません。「申しません」という立ち位置自体も既に問題なのですが、彼が光に接し人間本来の醜さで苦しんだ事を経てこそ、今回の事件を通じて「障がい者」とは何であるのか?を血と骨に刻まねばならないでしょう。

「知的障害者団体が出した緊急声明 」の結びには次のように記されていました。

「障害のある人もない人も、私たちは 一人ひとりが 大切な存在です。障害があるからといって 誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。」

それはその通りですが、それ以上に彼らは光なのです。すべからく人間を自己と向きあわせてくれる光そのものです。光とは光に接して初めてその何たるかが明らかとなる。私は容疑者の取った行動を非難します。しかし彼が味わった苦しみ(醜い自分と向き合ったこと)、それは即ち光に接することなし非難も反省も意味をなさず展望もない。「障害のある人もない人も、私たちは 一人ひとりが 大切な存在です。」という目線と立ち位置ではなく、彼らこそが私を真理に導く光(受肉した言)であると告白したいがために光の下に身を晒して参りたい。

と思う時、私には彼がイスカリオテのユダに見えるのです。

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