エリファズが語り終え、ヨブは口を開いた。
「わたしの苦悩を秤にかけ、わたしを滅ぼそうとするものを、すべて天秤に載せるなら今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ。」(6.2-3)
エリファズはヨブに対し、神の正しさを語った。苦しむ人にとって神の正しさは希望である。しかし苦しみの極みに置かれた人に語るそれは時に、その人を更なる孤独へと追い込む。
ヨブにとってエリファズの言葉は机上の神学に過ぎない。「神は正しい方であるから・・・」という説明は、ある程度の苦しみには効果的である。しかし限度を超えた苦しみには、かえって鞭となり孤独へと追いやる。
希望とは、失望する者に与えられしものである。その希望とは神そのものであるが、それは言葉で説明するような類のものではない。希望とは神の正しさを解説することではなく、神の正しさが「寄り添う者」として、苦しむ者の傍らに存在するのだ。語る言葉を失ったヨブに最早言葉は不要ということだろうか。
神を信じ、神に希望を置くとはどういう事なのだろうか?それはある意味、人に頼るなとも言える。人に希望を置く者は、人に失望して終わる。しかし隣人を愛することが神を愛することであるなら、神を信じるとは、友を信じると言えないだろうか?
ならば、苦しみ孤独に苛まれる人が信じるに価する友となるべきが神の希望を証しして行くことに他ならない。その点において、エリファズの言葉はヨブにとって希望たり得なかったのである。