変わらぬもの

先週大阪に帰省しました。恒例の亡き父の記念式を守るためでした。翌日、私は次女を連れて西成区南津守に向かいました。そこは私が中学2年生まで育った街です。地下鉄岸里駅から最初に目指したのは卒園した聖化保育園でした。信じら50年前にタイムスリップしました。当時担任の姜先生がご健在であることを聞かされました。(園内にチャペルがあり毎週礼拝を守っています)

次に子どもの頃、毎日遊んだ三角公園を訪ねました。その隣に小学校からの同窓生の実家があります。表札はそのままでした。気づいたら玄関に入っていました。懐かしいお母さんが出てこられました。いつも遊び疲れ喉を乾かしてはお水を飲ませてもらってました。同窓生の友人は現在京都在住とのことでした。

懐かしさとは何だろう。時間とは何だろう。時間は変化を生産します。しかしその時間に抗っているのか否か、変わらない部分もあります。在るべきものが消えている寂しさと、そのままである懐かしさが共存し現在を構成しています。新しさを求める一方で身勝手ではあるがそのままであって欲しいと願う何かがあります。

来年取り壊されるヨルダン寮と牧師館も改装しながら変化してきました。しかし変わっていないものも確かにあります。その変わらないものが、じっと誰かを待っているのかのような、そんな息遣いが聞こえて来そうです。

人生は前に進む。過去には戻れない。しかし街並みに限らず、そのまま変わらないものと、そこからの距離感が今を認識する大切な役割を果たしているように思えます。何が変わったのかを変わらぬものが教えてくれているように。

戸手宣教44年、何が変わり、何は変わっていないのでしょうか。変わったもの、変わらぬもの、それらの共存が今であり且つこれからの方向を指し示しています。

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