嫉妬

外国人と日本人の交流施設「川崎市ふれあい館」などに、在日コリアンらを脅迫するはがきが相次いで届いている。今年1月にはふれあい館に「在日韓国朝鮮人を抹殺しよう」と書かれた年賀はがきが届いた。社会問題となっているヘイトスピーチであるが、誤解を恐れず個人的な見解を言えば、こういう輩は相手にしないのが一番だと思う。相手にしてやるのが返って相手のためにならないと思うのだ。
 私はヘイトスピーチする彼らの根底には嫉妬があるという思う。民族アイデンティティーを持つものに対する嫉妬である。
 人間は意識の有無を別としてアイデンティティーを持っている。例えば私たちの信仰告白もアイデンティティーの一種である。アイデンティティーとは幅広い概念なので全てを網羅した論述は出来かねるが、例えば帰属意識という次元で云うならその一つに国家がある。その国家を自身のアイデンティティーとすること自体に問題はないが、大切なのはそれ故に(即ちそのアイデンティティーに従って)今自分は如何に生きるかというアクションに連動してアイデンティティは意味を持つ。ヘイトスピーチの場合(全てとは言わないが)彼らはアイデンティテーの要請として在日コリアンを差別しているのではなく、大和民族という単一民族からなる国家の構成員であるというアイデンティティーを守る(守るというのも、嫉妬が生んだ方便に過ぎないのだが)所に目的が置かれている。即ち面白いから笑うのではなく、「面白い」の証明として笑うという事実が必要という奇妙な現象が起こっている。という見方も出るという話に過ぎないが、嫉妬は認め難い感情である。認め難いが故にそこに上塗りされる諸々は歪んで行かざるを得ない。イエスの殺害も、イエスへの嫉妬が律法学者らの言動を歪めていったのであろう。
 嫉妬は多種多様な感情へ変化する。怒り憎しみ恨み恐れ。しかしそれらが嫉妬に端を発している事を無自覚である限りにおいて、人間は変化したそれらの感情に正当な理由を付与して挙げねばならない。
嫉妬とは「他人が自分より恵まれていたり、すぐれていることに対して、うらやみねたむこと」である。即ち嫉妬とは恥ずかしい感情なのだ。
人間は人間である限り嫉妬する。そしてその嫉妬から生産されるものは例外なく醜い。
私は嫉妬する。しかしその嫉妬する自分と向き合うことなく諸々を上塗りする ようなつまらない人生だけは歩みたくない。同時にその嫉妬を放置しない。
 私が言いたいのは、ヘイト・スピーチする方々にそんな人生はつまらんぞと言ってあげたいのだ

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