前進する(マルコ福音書1.21-28)

イエスの教えは、律法学者のように事実を言葉にする(説明する)ものではなく、言葉が事実になっていくものでした。そこに新しさがありました。この新しい教えのもとに集まってきたのは病人や悪霊に取りつかれた者たちでした。イエスの新しい教えはこの人々を癒やしました。

さてイエスが人里離れた所に一人で出ていくと人々はイエスの教え(癒やし)を求めて捜しに来ました。イエスは彼らに「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と言いました。

このイエスの言葉に宣教の働く基本的な方向性が示されています。教会の正面に「疲れたもの重荷負うものは誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とよく書かれてあります。確かに教会とはそのような所です。しかしそこには教会には真理があって此方に来ればその真理によって救われるという宣教の方向性が見受けられます。即ち「救われたければ、どうぞいらっしゃい」と身構えています。そして人が沢山集まって来るには教会は何をすべきかと発想します。しかしそこにイエスの教えの新しさはありません。方向性が逆なのです。先ず新しい教えがあって人はそれを求めて集まるのです。

「ほかの町や村へ行こう」というのは必ずしも空間的な距離を意味する、例えばここは戸手町だけど小向町の方までという意味ではなく、待っているのではなくて進んで此方から出向いて行こうという力の方向性を表しています。その出向いて行くという方向性に言葉が事実となる新しさがあるのです。

これから先、それがキリスト教宣教と何の関わりがあるのかと思えるような分野との遭遇があるやもしれません。しかしそこに救いを求める苦しむ人、悲しむ人、虐げられている人がいる限り教会の宣教は進んでそこに出向いて行くのです。しかしそれほど遠くまで行く必要はありません。近くで良いのです。海の向こうまで考えなくて良いとは申しませんが、その前に先ず一歩先に出向いて参りましょう。そのために新たな教会堂は建てられるのですから。

孫 裕久

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