自分の十字架を背負って

マルコ8.31-9.1

イエスが自らの受難を予告するとペテロはそれをいさめ始めた。その時のことである。イエスは言われた「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8.33)

引き下がれとは直訳すると「後に行け」である。この「後」は「わたしの後に従いたいものは・・・」(8.34)の「後」と連携している。「神のことを思わず、人間のことを思っている」とは自らの思いが神の御心の前を行っているという意味である。ペテロがイエスをいさめたとは、イエスの受難が自分にとって不都合であることの表れであり、自らの思いを優先し神の御心を否定したことに他ならない。故にイエスは(わたしの前ではなく)後に行けと叱ったのだ。

これに続いてイエスは(私の前ではなく)「私の後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」(8.34)と言った。後に従うとは、前に出ようとする自分を捨てる事である。自分を捨てなければ、すなわち人間の思いよりも神の思いを優先しなければ、イエスの後に従うことはできない。原語で「従う」とは「仲間になる」という意味が含まれる。自分の十字架を背負うとは、前に行く十字架を背負ったイエスの仲間であることを明らかにするものである。十字架を背負った者は罪人である。そしてその後に自らも十字架を背負う事は、自分はこの罪人の仲間であるとの告白である。そしてイエスはこれを恥じるなという(8.38)。

それぞれの十字架があり故に求める救いがある。私は自由になりたい。人生を演じるのではなく、そろそろ真の命を生きたい。そのために自分を捨てることにこだわり続けてきた。自分を捨てようと思って捨てきれるものではない。しかし捨てるとは(本テキストによれば)イエスの前に出ようとする自分を捨てる(否定する)ことであり、後に従うとは十字架を背負って歩む隣人の仲間となる(自分の十字架を背負う)ことであり、且つその自分を恥じない(肯定する)ことである。その先に私の自由があることを信じて。

孫 裕久

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