真の敬意

マルコ 9.38-40

使徒の時代、エルサムの教団に属さない一派がイエスの名を用いて伝道活動していた。主の兄弟ヤコブを指導者とするエルサレム教団はこの活動を容認した。この物語はその事情を反映している。

関田牧師の監修された本の「はじめに」に本当の宗教の見分け方が紹介されている。そのひとつに「真面目な他の宗教への敬意を持っているか」とあった。

宗教とはとかく自らの教えを絶対化し他の宗教を否定する。関田牧師のいわれる「真面目な」とは教義ではなく事実を指している。教えや立場を異にしても、そこでなされている事実を直視しその事実を然りとする時、それに対して素直に敬意を払うことが出来るか否か?である。

派閥とは判断の前に結論があって、事実はその結論に妥当するよう解釈される。宗教もこれに近い弱点を持っている。しかし原始キリスト教会は教団に属さない(今日的に分かりやすくいえば負担金を収めない)一派の活動を容認した。それは消極的にはキリスト教への迫害事情も挙げられるが〈逆らわないものは見方(9.40)〉、積極的には異なる一派とはいえイエス・キリストの名によってなされたその事実がもたらす可能性を尊重したのである。

確かに教団が力を蓄えるにつれ異端を排除した歴史もあるが、その一方で原始キリスト教会には関田牧師いう「敬意」とまではいかなまでも、異なるグループを否定しない自由の萌芽があったと見て差し支えなく、それは曲がりなりにも今日にまで至ったキリスト教会の生命力のひとつに数えてよい。

立場や敵意を超えて事実を直視しその事実に敬意を払うことのできる川崎戸手教会でありキリスト者でありたい。それが教会を生かし信仰を生かすのである。

孫 裕久

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